雲を掴むような

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【卒業式まで死にません】我々は南条あやを救えるのだろうか

私は遺書を読むのが好きだ。

 

結局のところ、生物の最大の恐怖とは「死」であるはずだ。それでもなお「死」という選択をしたその人は何を思ったのか、どれだけ「生」というものに怨みなどを持っていたのか。死を持って何を伝えたかったのか…

私の中で最も探究したいものの1つだ。

 

しかし、それを知りたいと思っても語れる人間は既にこの世には居ない。

それを唯一知れる手掛かりが、遺書である。自分のこれから先の全ての生命エネルギーを投げ打って、1つの文学を創り出す、そのエネルギーに私は惚れ惚れとしてしまうのだ。

死んだ人間が、生きている人間として生きていた証こそ、遺書だと思う。

 

 

遺書の代わりになる文学というものが幾つかある。

有名なのは太宰治の「人間失格」。葉蔵という架空の人物が主人公になっているものの、太宰自身の人生や思想を詰め込んだ作品として評価されている。

後は、高野悦子さんの「二十歳の原点」とか、二階堂奥歯さんの「八本足の蝶」とか、山田花子さんの「自殺直前日記」とかだろうか。

 

 

今日はそんな自殺をしてしまった人間が自殺前に遺した文学のひとつ、南条あやさんの「卒業式まで死にません」を紹介したい。

 

実は私はこの本を読んで日記を毎日書こうと思ったのだ。

週に3冊は本の紹介をコンスタントにやっていきたいと思い、ならば最初の1つはこれだろうと手に取った。

 

 

南条あやさんとは、1980年代から1999年までの間、インターネットでのブログ活動などで人気を博した言わば元祖のインターネットアイドルである。18歳という若さで服薬自殺をしてしまった。

 

http://web.archive.org/web/20030805035852/nanjouaya.com/hogoshitsu/memory/index.html

 

これが南条あやさんのブログ、南条あやの保健室。

このサイトに入る度に、20世紀の雰囲気はもちろん、あやさんの思想が今もなお電子情報として化石のように存在し続けている事に胸を打たれる。

 

町田あかねさんという薬に携わるライターさんがやっていた「町田あかねのお薬研究所」というサイトが行った精神薬の体験談募集の企画に南条あやさんがコラムを送ったことが始まりのようだ。その文才が評価されて、「町田あかねのお薬研究所」内に「南条あやの保健室」が開設、そこから独立したものが、今見れる南条あやの保健室である。

合併していた頃は町田あかねさんの一言コメントがコラムに毎回添えられていたものの、独立してからは全て消えたそうだ。

 

 

そして、南条あやさんが亡くなったあと、「南条あやの保健室」を書籍化したものが、「卒業式まで死にません」なのだ。

 

卒業式まで死にません」という言葉は、南条あや自身が掲げてきた言葉だ。

 

 

書いてあるのは、痛々しいまでに明るく振る舞いながら、自傷行為を行い、衰弱していく女子高生の様。

 

それでも、彼女の世界に私はどうしても引き込まれてしまう。

 

 

 

今回はそんな南条あやさんの記事。

 

 

 

 

彼女の素晴らしい所は、彼女の世界観に引き込む文の才能だと思う。

 

彼女の見ている世界はどうしようもなく繊細だ。起きて、学校に行って、体育をして、帰りに病院に行く。なんて普通にイメージすれば何処にでもいる高校生の一日だが、彼女はその一つ一つを丁寧に見て、自分の心を観察する事ができるのだ。

 

尚且つ、それを笑いを混じえながら全て文で表現出来るから凄い。

彼女の文には、小説家が使うような難しい言葉は一切ない。

20世紀のインターネットを感じさせる (泣)、(おいおい)などのカッコを使ったツッコミ、「あタシよくワッカんな〜イ」と言った表現が多用されている。インターネットの向こう側の人間のために書いている文なのだ。

 

今日あった全てをインターネットの向こう側のファンに見てもらうために、辛いことも苦しい事も面白おかしく、繊細に、文で表現しきる。

なんと素晴らしい才能か。

 

彼女の心は本当に純粋で優しいのだ。誰かが悪いのではなくて自分が悪いと思い込んでしまうのだ。

そのキラキラな純粋の心がどうしようもなく美しく、そしてその純粋な心によって手首に傷をつけていく様が苦しい。

若い命がギラギラと燃え上がり、昇華して、儚く散っていく様には胸が締め付けられる。

こんな気持ちにさせられる文学に出会ったことは無い…唯一無二の作品だと思っている。

 

 

 

私は彼女の行く末を見たかった。彼女の作る作品をもっと見たかったなぁと思う。

 

彼女が亡くなったからこそ「南条あやの保健室」は価値が上がったのだろうか。

 

彼女が生きていれば「卒業式まで死にません」は生まれかったのだろうか、と言えばその通りなのかもしれない。

卒業式まで死にませんを書いた南条あやさんがこの世に生きるという自体はパラドックスなものだ。

 

しかし、南条あやさんがもし生きていれば「卒業式まで死にません」に換わる素晴らしい作品をいくつも生み出していたのではないかと思うのだ。

 

 

卒業式まで死にません」の良さは、キラキラ輝く若い命が昇華し儚く散っていく様なのかもしれない。

しかし、南条あやさん自身の思想や純粋な心、見えている世界というのはそれ以上に表現するに値するものなのではないだろうか。

 

今何を言っても、彼女の新作を見ることは出来ないのだが…

 

死んだら全てが終わりなのだろう。今抱えているものがどんなに苦しくても、死んだら終わりなのだと思う。

南条あやさんの作品を見る度に思う。

彼女が死後にどんなに賞賛されたとて、死後に彼女の才能が見出されたとて、彼女に届くことは無い。

 

死後に評価されるということは、価値があることなのだろうか?

それが本人に届かないのであれば、私は全くの無意味だと思う。死後に評価されるだけの才能を生前に持ち合わせているのだから。

 

 

私が死んだ後、何が残るのだろうか。なにか評価してもらえることがあるのだろうか。

死ななかったとしたら、10年後の南条あやさんはどこで何をしていたのだろうか。

 

この世には、今自殺をしようとしている人が何千人といるのだろう。もしかしたらあなたなのかもしれないし、今書いている私も実は自殺をする直前かもしれない。

 

ならば、私たちは南条あやなのだ。そしてそれを救えるのも、きっと南条あやなのだ。

 

彼女が死んだ時、多くの人間が悲しみ、未来ある彼女の閉ざされた未来や亡くなった彼女の才能に嘆いた。

後から幾らでも「生きていれば…」といえる事を証明させた。

 

 

今苦しんで、心のどこかで生きるのを辞めたいと思っている全ての人は、南条あやの「卒業式まで死にません」を読んで欲しい。

18歳の彼女がギラギラとした日々を生きて、自ら死んで、彼女の未来や才能が潰えた事に多くの人が悲しんだ事を知って欲しい。

 

 

彼女の何十年とあったはずの余生を1つの文学に凝縮したエネルギーを感じて、「生きなければならない」と思って欲しいのだ。

それこそ、南条あやさんが今後も生きていく、という事になるのだと思うのだ。

それこそ、亡くなった南条あやさんの意志を継ぐこと、南条あやさんを救う事になり、南条あやさんである我々が救われる事に繋がるのではないのかと思う。

 

そう信じたいね。どうか死なないで。